霊性と情熱のあいだぐらい

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zoom RSS 一冊の本から

<<   作成日時 : 2016/06/02 16:14   >>

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2週間ほど前に、妻が「お里」から帰ってきて、一ヶ月ぶりに一緒に暮らし始めた。
私の予想だと、何か重大な「気づき」を持って帰ってくるはずだったのだが、妻が持ち帰ってきたのは一冊の聖書だった。
懐かしい!
私は仏教徒だが、ヒンズー教、仏教、キリスト教は一通り勉強している。
キリスト教も、今から25年前ぐらいだが、必死になって勉強していた時期がある。

帰省中、妻はあちこちの美術館を巡っていたそうで、そこで見た西洋美術の美しさに心奪われたと言う。
特に、システィーナ礼拝堂のレプリカには、いたく感動したらしく、キリスト教に興味を持ったということだった。

私は仏教好きだが、実はいかなる団体にも所属していない。組織というものは必ず腐敗するものだから、私は宗教団体を非常に毛嫌いしている。やる気があるなら独学で充分。瞑想もどこでだってやれる。
しかし、人生には「信じるもの」が必要だ。人間が、神や仏や運命を全く信じずに、「死んだらすべて終わり。だから生きているうちに快楽をむさぼるのだ」なんて考えていたとすると、舛添都知事みたいな人間になってしまう。

私は、仏教の論理的な部分に心惹かれたが、子供のころから美術を愛好していた妻がキリスト教に興味を持つのは当然の帰結だったろう。
理屈っぽい私には仏教の真言宗や曹洞宗が向いているが、情緒が発達している妻には浄土真宗か、カトリック信仰が向いているだろうと思って、実は普段から「信仰を持て」と勧めてきた。なので、今回の出来事はすべて計画通り(ニヤリ)なのである。

私はイエスもブッダも、同じ悟りの境地にたどり着いた人だと思っている。こういう考えは、ヨーロッパでは軽蔑されるらしいが、瞑想期間中の彼らの体験は驚くほど酷似している。
実は初期のキリスト教会では、イエス・キリストは「人間」として扱われていた。ブッダと同じ「聖者」ですな。神の言葉を伝える「預言者のひとり」だ。
ところが、西暦375年、ニケーアの公会議で「神のひとり子」として認定される。
つまり聖者イエスは、皆さんの多数決で、ある日突然「神」になったんですな〜。
神が優秀なら、この世のすべてを、ひとりの聖者の手にゆだねたりはしないだろう。各地域、各時代に、優れた聖者を多数配置するはず。
例えば、ダ・ヴィンチ、パラマハンサ・ヨガナンダ、ムハンマド、空海・・・彼らもまた、その時代の人々を救う優れた聖者だったのではないだろうか。

そんなわけで、妻に偉そうに宗教解説をするために、この2週間、必死に聖書を読み進めている(笑)。
旧約聖書は奇想天外すぎてついていけないが、新約聖書は昔読んだことがあるので、スラスラと読める。

それにしてもイエスも無理なことを言う。
「右の頬を打たれたら、左の頬も出せ」とか・・・相手がテロリストだったらどうすんだよ。右のビルが壊れたら、左のビルも壊せ、になってしまう。

しかし、注目すべき文章も見つけた。
「私は光である」とイエスが宣言する場面。神学者はこれを「自分は神の子である」という宣言だとらえているが、
実は別のページで、イエスは弟子たちに「あなた方は世の光です」とも語っている。
となると、イエスも弟子たちも「光」なのだから、イエスだけが神の子であるという主張がおかしなものになる。

ここで、インドの聖者サイババの言葉が思い出される。
「私は神だが、あなた方も神だ。違いはそれに気がついているかどうかだけなのだ」

スピリチュアル系の考え方では、すべての人や物は、あるひとつの源(ソース)から生まれた、とされます。
「ワンネス」などとも言われますね。同じところから生まれ、同じところに帰る。それは聖者であろうと、悪人であろうと同じです。

イエスが「私だけが特別な人間だ」などと主張するとは思えません。
本当にカトリック教会はイエスの真意を正しく伝えているのでしょうか?それどころか、イエスの一番弟子であるペトロでさえ、本当にイエスの真意を理解していたかどうかは分かりません。
少なくとも、イエスが立派な礼拝堂で「神」として祭られることを望んでいたとは考えられません。

などと、生来の「ツッコミ気質」で、聖書に文句をつけながら、今日も聖書を読み進めております(笑)。

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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
聖書に突っ込みは昔からやってますね。
聖書を読むと思うのは未開の地の人間に遙か進んだ科学力の宇宙人が関与してきたのかなと思っています。
聖書を作る側に関わった人間にそこまでの知識が及んでないために、後は政争の道具にするためにねじ曲がって伝承されている部分がかなりあるなという印象です。
それを学校で言うと頭のおかしい人扱いされましたけどもね(笑)。
まあ、今はかなり忘れてます。
ありあ
2016/06/02 18:58
こんにちは、ありあさん。
イエスの生涯を書いた「四福音書」の4人の作者の中で、マルコとルカは、イエスと直接会ったことがない人達ですから、その内容が正しいかどうかはちょっと疑問です。
それから、イエスと特に親しかった「マグダラのマリア」が書いた福音書は、カトリック教会によって破棄されたとも言われています。

こうなると、「教会の運営」が重視されて、かなり歪められた内容が現代に伝わっている可能性は大いにありますね。
ちなみに、マグダラのマリアは映画「ダ・ヴィンチ・コード」の中では、イエスの妻として描かれています。もちろん、カトリック教会は大反発して、公式に抗議声明を出していますが(笑)。
スイレン
2016/06/03 08:29
スイレンさん、お久しぶりです。
ようやく戻られたのですね!3ヵ月でしたか、もっと長く感じました。復活お待ちしていました(^-^)
私もカトリック系の学校に6年も通いましたが、未だ無宗教ですよ。
教会の雰囲気などはむしろ好きですが、何やら宗教臭がした途端にダメですね。本当かどうか分からない聖書の言葉よりも、長崎の信徒たちの信仰心や五島で見た旧い木造の小さな教会群や天主堂、簡素なマリア像に感銘を受けました。
つるばら
2016/06/07 14:05
ご無沙汰しておりました、つるばらさん。
聖書の言葉は古臭いので、私も昔は理解できませんでしたが、年齢を重ねてから読み直すと、なかなか真実を言い当てているような気がします。

実は東北各地には「隠れキリシタンの里」が点在しており、江戸時代の大弾圧でほとんどの信徒が殺されています。
命を捨ててでも守りたかった信仰・・・と考えた場合、聖書の中に「命よりも重要な価値」を探したくなります。私なりの聖書解説はまたブログにちょこちょこ書きますね。
スイレン
2016/06/08 13:59

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