霊性と情熱のあいだぐらい

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zoom RSS 実録、東日本大震災・再編集版

<<   作成日時 : 2014/08/29 14:23   >>

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震災から3年半ほど経過します。震災から2週間ほど経ってから、その時の体験をブログにつづりましたが、あまりに長文になったため、6回ほどに分けて書きました。これがまた、実に読みにくい。ウェブリブログは新しい日付が上に表示されますから、一つの文章なのに順番が逆さになってしまいます。
で、正しい順番に並べなおして、再編集版としてもう一度掲載させていただきます。長文なので、時間に余裕のある方だけ挑戦してみてください(笑)

3月11日午後2時46分。このとき私は、自宅近くの畑で作業をしていた。雪が降り始めていたので、そろそろ帰ろうかな、と思い始めていたころだ。
地鳴りと共に突然の激しい揺れ。立っていられなくてその場に座り込んだ。石巻はもともと地震の多い地域なので、震度6弱の地震なら、これまでも何度か経験している。それでも、立っていられないほどの揺れは今回が初めて。これはヤバイ、と思った。少し離れたところの民家の窓ガラスが割れたり、電柱が倒れるのが見える。一旦揺れが収まったので、車に乗り込もうと歩き始めが、すぐに2度目の激しい揺れ。その場で四つんばいになった。
ケータイを取り出し、妻に電話したが、つながらない。災害の時はよくあることだ。宮城県民は日本のどこよりも地震に慣れているし、建物も頑丈だ。落ち着け、落ち着いて行動しろ、スイレン。
自宅まで車で5分ほどだが、近所の家は瓦が落ち、道路も激しく陥没している。家の中に入ると壊れた食器や窓ガラスが散乱。買ったばかりの液晶テレビも根本から曲がってしまっていた。電気がつかない。停電か。
あまりの惨状に、不安になって、もう一度妻に電話。今回はつながった。
妻は石巻市街中心部でアルバイトをしている。
「怪我はないか?」
「大丈夫。鉄筋の建物だし、こっちはそれほど被害はないよ。ただ、電気が消えたから、今日は帰っていいって言われた。」
「そうか、バスとか電車が動いているかどうか分からないから迎えに行くよ。石巻駅前で待ってて」
「分かった」
「停電していて、信号がついてないから渋滞していると思う。ちょっと時間がかかるかもしれないけど、いいかな?」
「うん」

石巻中心部に行くには三陸自動車道という高速を使うと早い。
ところがインターの入り口には早速バリケードがしてあって通行止めになっていた。
仕方なく、土手沿いの迂回路を行くことにした。あちこちで全壊した建物が道路に覆いかぶさり、警察官や消防団員が交通整理をしている。ブロック塀は、無傷のウチはほとんどないといっていい。それにしても災害の多い地域だけに、消防団や警察の行動は迅速だ。

北上川沿いの土手に上がる。
すると今まで見たこともないほどの水量で、おびただしい数の材木が川を逆流している。その位置は河口から5キロぐらいは離れている場所なのだが、今にも溢れそうなほどの泥水が川をさかのぼっている!(この場所は大川小学校の少し上流の位置に当たる)
津波か!
事態の深刻さにようやく気づいて、車のラジオをつける。焦っていたので、この時まで「ラジオをつける」ことを忘れていた。
「あ〜、私は今信じられないものを見ています。仙台空港が濁流に完全に飲み込まれました。」
いきなり、アナウンサーの悲痛な叫びが聞こえる。
ヤバイ、ヤバイぞ!あの大量の材木は、すでにどこかの街が押し流された証拠だ。
ケータイは何度かけてもつながらなくなった。国道45号線に入ったとたん、渋滞で車は完全に動かなくなった。まだ、市の中心部までは4キロ以上ある。別のルートで行こうかと思案している時にようやくケータイがつながった。
「スイレンさん。いま駅前にゴミが流れているよ。たぶん、ここまで車でこれないと思う。」
「それ津波だよ。こっちも渋滞で動けなくなった。」
「蛇田か中里まで歩いていこうか?」
外は強い雪が降り始めていた。
「無理するな。雪が降ってるのに、足が濡れたら凍傷になるぞ。」
「分かった。いま市役所に避難しているから、水が引いたら迎えに来て」
石巻市役所は駅前のデパートだったところを改造して造った6階建ての建物だ。あそこなら大丈夫だろう。
「水が引いたら電話しろ。夜中にでも迎えに行くから」

そう言って私は引き返し始めた。
この時点で私たちはまだ事態の深刻さを本当に理解してはいなかった。

停電しているし、固定電話もつながらなくなったので情報はほとんど入らなかった。
消防団員専用の災害ダイヤルに電話してもつながらない。いったい、今何が起こっているんだ?

夜7時。
電話がつながらないので、独自の判断でもう一度、中心街に向かう。
市の中心部が火事なのか、煙が見る。雲がオレンジ色に染まっていた。(後で知ったが、門脇地区で大火災が起きていたらしい)
道路のあちこちが陥没。マンホールだけが50センチ以上も飛び出していて走りづらい。街頭もないから真っ暗だ。でも、渋滞はやや緩和されていて、何とか走れる状態ではあった。
駅前に向かう道路が冠水していて通行止め。
迂回して開北橋側から市内に入ろうとしたが、そこも冠水していた。立ち往生した車が次々に停止していく。水位は見る見る間にあがってくるので、強引にUターンして退避した。迷っていた人たちは恐らく車を失っただろう。
もう一度駅前通にまわり、歩いていこうと思った。真っ暗な闇の中、水位は明らかに上がってきている。無理だ。ここで無理したら確実に死ぬ。でも、何とか妻に連絡をとらないと。
水際でしばらく携帯を連打していたらようやくつながった。
「今晩は無理だ。明日の朝、迎えに来るから、今日は市役所に泊まれ」
「分かった。ここは長椅子もあるし、他にもたくさん避難民がいるから大丈夫。」
「アサイチで迎えに来るからな。一晩は我慢な」

帰ろうと車に乗り込んだが、帰る方向が通行止めに!マズイ、45号線も冠水している。すでに道路の水位は20センチほど。迷っていたら、ここで孤立する。
マフラーに水が入らないように、全開でエンジンをふかす。前方でゆっくり走る車にクラクションを鳴らしながら強引に追い抜いた。車高の低い車がすでにあちこちで立ち往生している。私の車はオフロード用の車高の高い車なので何とか走れているが、10分もしないうちにこいつも動かなくなるに違いない。
水はすでに海から4キロ近く離れている国道を越え、農地に流れ込んでいた。石巻赤十字病院の回りも冠水し、盛り土をしてある病院の建物と駐車場だけが島のように浮かんでいた。

何とか水没地区を抜け出し、家にたどり着く。
妻の実家や、私の兄弟に無事を知らせる電話をした。
ケータイのワンセグ機能で情報収集。沿岸地域がすでに壊滅状態にあることを知る。
翌朝、水は北上運河のラインまで後退したが、その位置から数日間にわたり水位は下がらなかった。
水没地区の端っこから、市役所まで約600メートル。建物は見えているのに、連絡手段も、連れ出すこともできないなんて・・・・。持病を持っている妻の薬の残量も気になる。市役所の一階は食料品店だが、恐らく水没しているから食料もないだろう。
私と同じように、水没した街の中に家族がいる人たちが何百人も北上運河の周辺に集まり、途方にくれていた。

地震の翌日の朝6時。昨日の火災はまだ消えていないのか、複数箇所で煙が見える。
国道を曲がるとすぐに水没地区に入る。水位は多少下がったものの、民家の一階が水没しているところから見て、おそらく150〜180センチくらいはありそうだ。
市内に入るのはボートが必要だ。
ソフトバンクの携帯は「圏外」と表示されたまま。2日目の時点でソフトバンクとドコモの携帯は完全に不通。au同士が辛うじてつながる状態になっていた。
携帯のつながるエリアはないかと車でウロウロと動き回った。
すると石巻赤十字病院の前に来るとアンテナが一本立った。祈るような思いで妻に電話。・・・・つながった!
「無事か?」
「うん、大丈夫。でも、ここ、食料がないよ」
「え・・・あ、それは困ったな」
「水もまだ引いてないよ。胸の高さぐらいはありそう」
「そうか・・・。携帯のバッテリーは大丈夫かな?どこかで充電は・・・」
ブチッ!
通話が切れた。これ以後、ソフトバンクの携帯は一切どこにもつながらなくなった。

もう一度、北上運河に向かう。
石巻の旧市街(合併前から石巻だった地域)は全域が水に浸かっているようだ。海から4キロも離れているこの地区でこの深さなんだから、港付近の住宅地はいったいどうなっているのやら・・・・。

旧市街に自宅や会社や知人の家がある人々は運河周辺に集まり、どうにか中の人たちと連絡をとる手段はないかと思案していた。東北の沿岸地区は全域でこの状態なのだろうから、警察や消防が助けに来るのには時間がかかるだろう。水も食料もないのに孤立した人々はいったい何日持ちこたえられるのだろうか?

2日目の午後4時。
水位はほとんど下がっていない。
自衛隊のヘリコプターが多数飛んでいるが、救助作業を始めている様子はない。固定電話も携帯電話もどこにもつながらない。
焦る。
しかし突破口を見つけた。
電車の線路だ。線路は道路よりも1メートルほど高くなっている。石巻市役所は駅前にあるから、線路をたどっていけばたどり着けるはずだ。時刻は夕方。いま行っても明るいうちに戻っては来れないだろう。
妻よ、もう一晩だけ我慢しろよ。明日の朝になったら助けに行くぞ。
遠くに市役所の明かりが見える。自家発電ができるのか。薬の残量はもうないだろうな。

3日目の朝。
夜が明けないうちから準備を始めた。地震以来、なんの店も開いてない。自宅にあるもので何とかしなければ。
線路をたどっていっても、途中で地面が陥没しているかもしれない。ライフジャケットが欲しい。
家の中を探したら、直径1メートルほどのフィットネスボールを見つけた。これにつかまっていけば浮き輪の代わりになるかもしれない。
朝6時。再び水没地区に向かう。
考えることはみんな同じだったらしい。線路の上を歩いて中心街に向かう人が何人もいる。みんな家族の安否確認がしたいのだろう。歩いている人の姿を見る限り、水の深さは胸ぐらいか。よし、俺も行くか。
水の中に足を一歩踏み入れたら周りの人から止められた。
「やめなさい。何の装備もなしに行ったら寒さで足が動かなくなって溺れるよ」
「え?そうですか?でもみんな歩いてますよ?」
「いま歩いている人はみんな完全装備ですよ。ウェットスーツとか、釣り用の胴長(胸まである長靴)を着てましたよ。」
「そんなのいま手に入るんですか?」
「昨日までだったら上州屋(釣具店)で売ってたらしいけど・・・」
なるほど、確かにそれなら確実だ。この泥水の中を無事に往復できるとも思えないしな。
すぐに車で上州屋に向かう。店は閉まっていた。窓を割って入ろうかとも思ったが、中に胴長が残っている可能性は低いだろう。
知り合いの釣り好きを回ったほうがいい。
3時間あちこちを駆けずり回って、ようやく胴長を持っている人を見つけ出した。事情を話し、貸してくれるように頼む。
「市役所に行くんですか?水が深くて無理ですよ。私も昨日から何度も見に行ってるんですから」
「いいえ、線路の上だったら可能です。実際に線路をわたって市内に入っている人たちもいます。」
どうやらこの釣り吉も、奥さんの実家が水没地区にあるらしい。昨日からどうにか連絡を取ろうとして苦労しているとのこと。
「生きて戻れたらすぐに返しに来ますので」
「・・・・そうですか。じゃ、持って行ってください。うまく行ったら私も人命救助に使いたいので返してくださいね」
「分かりました、必ず」
どうにか胴長を一着借りることができた(彼は3着持っていたが彼も使うかもしれないと言うので遠慮した)。
帰り道は妻にこれを着せればいい。片道くらいだったら生身でも大丈夫だろう。

この時点で、石巻の雄勝や渡波地区で死体があちこちに浮いていると言う話は聞いていた。私が溺れても誰も助けには来ないだろう。本当に死ぬかもしれない・・・ちょっとだけ思い始めていた。
私は重度の花粉症なのだが、地震以来鼻水は出ていない。死の危険を察知して、どうやら体の免疫機能が正常化したような感じだ。
自衛隊のハマーが10台ほど連なり、水没地区の手前まで来たが、なぜかUターンして戻っていってしまった。
人々から「なんだよ、助けに来たんじゃないのかよ!」「訓練じゃねーんだぞ、バカヤロウ!」などの怒号が飛んだ。
携帯も通じないし、一度に10万人もの自衛隊が被災地に入ったのだから、無線などが大混乱しているのは容易に想像できる。

指揮命令系統がズタズタなのだ。自衛隊の救助を待ってる余裕はない。
決意を固めて胴長を着た。大丈夫。目標の建物は見えてる。必ず成功する。自分に暗示をかけて水没している線路の上を歩き始めた。

地震から3日目。3月13日の午前11時。
すでに石巻上空には無数のヘリコプターが飛んでいた。何機いるんだから数え切れない。自衛隊以外にも県警や消防のヘリもいるのだろうか。かなり低空飛行しており、物資の投下が始まっているようだった。
だが、何千人か何万人か知らないが、水没地帯に取り残された人を全員救出するのは相当な時間がかかるだろう。食料も薬もない状態で、妻を市役所に置いておく訳には行かなかった。

深呼吸してから水没している石巻線の線路に踏み出した。
泥水で足元が見えない。足でレールを探りながら進んだ。線路の両脇はちょっとした水路(ドブ)になっており、水深は恐らく2メール以上はあるだろう。足を踏み外して、胴長に水が入りでもしたら浮き上がっては来れないだろう。
50メートルほど歩いたところで周りを見渡す。すげー光景だ。見慣れた街がすべて水につかり、とんでもない数の車も沈んでいる。ワゴン車の屋根がちょっとだけ見える程度だ。
石巻の人間は、地震があったら日和山に避難するように訓練されている。しかし、まさか津波が日和山を回りこんで裏側の中心街にまで到達するなんて誰も想像すらしていなかっただろう。海からかなり離れている中心部でさえ、この有様なのだから、もっと海に近い門脇や、南浜、渡波などの地区は地獄だろうな・・・・。
仙台の荒浜では数百人の遺体が浮いているとラジオで言っていたし、いったいどれだけの死者が出てることやら・・・。
地元の航空自衛隊松島基地が津波で壊滅したのはニュースで知っていた。多賀城駐屯地もどうなっていることやら・・・・。地元の地理に詳しい部隊が全滅している以上、救助にはさらに時間がかかるだろう。

あー、考えても仕方ねぇ。行こう。
さらに100メートル進んだところで、線路脇の民家の2階から女性が声をかけてきた。
「すいませーん、どちらからきたんですかー?」
民家までは15メートルほどしかないが、線路下は水が深いので歩いていくのは不可能。
「えーと、国道の方から歩いてきましたー」
「え?あっちは水がないんですか?」
「はい、45号線のところまで行けば水がありません。蛇田のあたりは大丈夫です。」
「テレビもつかないし、携帯のバッテリーもないので何にも情報がないんですよー。救助隊はいつ来ますかねー?」
「・・・・青森から茨城まで海岸線は全部ここと同じみたいですよー。範囲が広すぎて救助が来るのは時間がかかると思いますー」
「はぁぁ?青森から茨城・・・・?」
女性は心底驚いているようだった。たぶん、津波に遭ったのは石巻周辺だけだと思っていたのだろう。
「線路のところまで泳いでくれば、歩いて避難所までいけますよー」
「・・・ウチは子供がいるのでやめておきますー。ところで水か食料持ってませんかー?」
地震直後から断水と停電で、私も水は持っていなかった。自動販売機も使えない。正直、私自身も喉がからからだった。
「すみません。持ってません」
仮に持っていたとしても、15メートル先の2階の窓までペットボトルを正確に投げる自信はない。
「そうですか・・・。で、どこにいくんですか?」
「市役所です。妻が避難しているので迎えに行きます。」
「ああ、そうですか、がんばってください」
周りを見渡すと、周囲の民家やアパートの2階に、本当にたくさんの人が避難していた。何度も言うが、ここまで津波が来るなんて誰も予想していなかったのだ。気がついたときには1階が浸水しており、2階に逃げたが、そのまま出られないなった・・・・というわけだ。誰もが不安そうに窓から自衛隊のヘリを眺めている。残念ながら、今の私には何もできない。
さらに前へ進む。
線路の向こうから、50代くらいのオッサンが歩いてきた。背中にリュックを背負っており、自宅から貴重品でも持ち出して来たのだろう。どこで手に入れたのか、きっちり胴長を装備している。
「兄ちゃん、どこに行くんだ。戻れ。さっき俺が行った時より水が深くなってるぞ、やめろやめろ」
「ああ、そうですか」
無視して前へ進む。オッサンがが後ろでなにやら怒鳴っていたが意識的に聞かないようにした。今さら止められるか!
しかし、オッサンが言ったように、その辺から急に水が深くなって胸の辺りまで達した。しかも、ドラム缶やら、木製の電柱まで流れてくる。
「そこ、気をつけてくださいねー!」
線路脇の民家の老夫婦が声をかけてくれた。
「信号機のあたりは深くなってますから、慎重に歩いてくださいねー」
「ありがとうございまーす!」
確かに、(列車用の)信号機のそばは陥没して穴が開いていた。私よりも先に歩いていった誰かがここでハマッたのだろう。その人はどうなったのやら・・・・。慎重にレールの上を歩く。

急に水が浅くなり、踏切まで到達したところで駅前の道路に上がる。水深は50センチ程度。
そこで中年男性と、その息子らしき人が近寄ってきた。
「どこからきたんですか?」
「えーと、線路を歩いてきました。」
「歩いて脱出できるんでしょうか?」
「はい、線路の上ならせいぜい胸ぐらいまでですから、がんばって500メートルほど歩けば・・・」
「あっちは水がないんですね?どこからないんですか?」
相手も必死だ。とにかく詳しい情報が欲しいらしい。
「あそこに大きなアンテナが見えますよね?あの辺から水がありません。あそこまで歩ければ助かります。」
しかし、この親子は生身だ。胴長を着ている私とは条件が違う。足にゴミ袋を巻いて長靴代わりにしているが、脱出にはその長さでは足りないだろう。
「水・・・・冷たいですよ。」
「ええ、でも、食料も何もないので・・・・行きます」
「信号のところに穴があるから気をつけてください。それ以外のところは、枕木のところを歩けますから」
「ありがとう」
親子は、今私が来た道を逆に歩き始めた。どうか無事で。私も帰りは生身で行きますよ。

親子を見送ったところで私も再び歩き始めた。市役所まであと100メートル。

新型プリウスが水没している。塩水に浸かったんじゃ電気系統はダメだろう。
「一時間まで駐車料金無料」と書かれた看板を見つけた。そうだったのか、有料だと思って遠くに停めてたんだが、今度からこの駐車場を利用しよう。考えながらオカシクなってきた。「次」なんてあるのだろうか?こんな状態で、石巻はまた人の住める街になる可能性はあるのだろうか?
自衛隊のデカイ・ヘリコプターが民家の屋根の近くまで降下し始めた。いよいよ、救助作業が始まるのか。
こんな間近で人命救助が見られるんだから、普段ならゆっくりしたいところだが、今はその余裕はない。

市役所の立体駐車場の入り口に到達。階段を上る。胴長の左足部分に穴が空いていたらしく、水が入って足が重い。
駐車場の窓からヘリを見物している市の職員らしき人を発見。
「外から歩いて来たのですが、避難民はどこにいるんでしょうか?」
「え・・・?ああ、2階と3階に避難しています。こちらへどうぞ」
奥の部屋に通される。
市役所は自家発電装置があるはずだが、節電のためか中は薄暗い。
「あそこに避難者の名簿がありますので」
掲示板に張られた名簿を見る。あった!確かに妻の名前。

大声を出して呼ぼうかと思ったが、あまりにも重苦しい雰囲気なので遠慮した。
避難している人たちは長椅子に寝転がったりテレビを見たりして過ごしていたが、明らかに空気が悪い。特に老人は苦しそうな表情を浮かべている。
たぶん、まる2日間、食事をとっていないのだろう。
一階にあった食料品店が完全に水没しているのは確認済み。
職員らしき人たちにいろいろ聞いてみたが、反応が悪い。何を聞いても「はぁ・・」とか「さぁ?」しか返ってこない。
栄養が足りないと人間、ここまでダメになるものか。
本来だったら、ここは災害対策本部が置かれる場所のはずなのに。(今は水没地区の難民となっているが)
職員の疲労の色が濃い。人に頼らず、自力で妻を捜す。2階から6階まで、すべて探したが見つからない。

2階に「保護課」という部署があったので聞いてみた。
「家族を捜しているんです。名簿に名前があったんですが見つかりません」
「もしかして、自力で脱出したかもしれませんね〜」
「えぇ!?」
「待ってください。出る人には名前を書いてもらってますので」
妻の名前を告げて、しばし待つ。
「あ、ありました。外出者名簿に名前がありましたよ」
「どうやって出たんです?この水の中を歩いてですか?」
「さぁ?」
「何時ごろですか?」
「さぁ?」
「戻ってくるんでしょうか?」
「判りかねます」
「・・・・・・」

突然の災害で動揺しているのは分かる。食事もとっていなくて疲れているのは分かる。それでも、敢えて言わせてもらえば、避難者の管理がズサンだ。
私はそこに座り込んだ。どこに行ったんだよ。何の装備もなしに歩いていけるほど甘い状況じゃないぞ。薬の残りがなくて焦ったか?
とにかくすぐに戻ろう。ずぶぬれの状態でどこかを歩いているかもしれない。家まで歩いて帰るつもりなら、どこかで追いつけるはずだ。

私は急いで市役所を出た。喉が乾く。筋肉が痛い。息が切れて胸が苦しい。
すると外で不思議なものを見つけた。
市役所の裏手に、椅子と机と材木で作った橋ができていた。どこまで続いているかは知らないが、この2日間、避難民も生き残るために必死で戦っていたことがうかがえる。(あとで知ったのだが、この橋は近隣住民と市役所に避難した人が共同で作ったもので日和山まで続いたいたらしい)
妻もこの橋を渡ったのだろうか?確認する方法はない。
とにかく私は、また線路を歩いて戻ることにした(少なくともこれが脱出の最短ルートではある)
国道側から駅側に向けて歩いてくる人、3人とすれ違った。みんな家族の安否を確認するために歩いて来たのだと言う。信号機の陥没箇所を教えておいた。本当にみんな必死なんだ。私と同じように、家族を捜している人たちが、今、日本中に何十万人もいる。
最終的な犠牲者や行方不明者は何人になるかは分からないが、その一人ひとりに人生があり、その一人ひとりに大切な家族や、親戚や、友人がいる。
ようやく水没地帯から抜け出し、私は線路の上に倒れこんだ。
私が無事に戻ってきたのを見て、水際で様子をうかがっていた人たち数人が水の中へ歩き始めた。中には、雨合羽をガムテープでぐるぐる巻いただけの人もいる。あれで無事に戻ってくるとは思えないが。
水没地帯から、発泡スチロールや材木で作ったイカダで脱出してくる人も見えた。頭に荷物を結び付けて泳いでくる女性もいた。みんな命の瀬戸際で必死に戦っていた。

津波から3日目の午後1時。何とか車のところまでたどり着いて胴長を脱ぐ。あちこち穴が空いていたのだろう。ズボンがずぶ濡れだった。貴重な時間を無駄にした。ケータイさえ通じていればこんなことには・・・・。
疲れていたが、すぐに車を走らせた。妻もずぶ濡れで家に向かって歩いているかもしれない。
噂では北上大橋や日和大橋は崩落しているという。市内に取り残されている人には脱出ルートさえ存在しない。もし妻が日和山に逃げたとしても、日和山の周囲は360度すべて水没している。逃げ道はない。
考えられるのは、日和山の避難所に身を寄せているか、私のように水の中を歩いて国道に出たかのどちらかだ。
家まで帰る最短ルートは三陸自動車道だが、今は緊急車両専用道路として通行止めになっていた。
・・・・もし私なら、それでも三陸自動車道を歩くだろう。道路自体が土手になっていて津波の心配はないし、何よりも結婚してから一番利用度の高い道路だ。
渋滞している国道を避けて、あけぼの通りに出る。驚くほどのたくさんの人間が水や食料を求めて街中をさまよっていた。ガソリンスタンドにも多数の車が並んでいたが、営業はしていない。子供を背負った母親も目立つ。飲料水がなくてはミルクが作れない。給水車も出ているが、あまりにも行列が長い。ドラッグストアには「ミルクと水はありません」との大きな張り紙。みんな完全に難民化している。私もその一人なのだろう。
何とか三陸自動車道が見えるポイントを走行したが、あちこち通行止めで何度も迂回を余儀なくされた。高速道路上を歩いている人はひとりも見つけられなかった。
家に到着。もし、妻が帰っていなかったらすぐに避難所回りをしよう。
部屋のドアを開ける。地震以来、ほとんど部屋の中は片付けていないはずなのに、ぬいぐるみが綺麗に並べてあった。・・・・・・・帰ってたのか。がっくりと力が抜けてその場に倒れこむ。それに気がついて奥から妻が走ってきた。
「スイレンさーん。良かった、帰ってきたー!」
倒れている私の上に覆いかぶさる。苦しい。重い。無意味なことに命を懸けてしまった。
妻は、やはり日和山に向かったのだそうな。そこから大街道というところから車をヒッチハイクして脱出したらしい。
ラジオで、大街道は非常に被害が大きく、完全に水没していると放送されていたので私は気がつかなかったのだが、3日目の時点で水深は30センチ程度まで低下していたそうな。一緒に市役所を脱出した仲間と共に、泥水の中を無理やり走行する命知らずな車をヒッチハイクしたという。
帰って来たらスイレンさんがいない!と言うわけで、私がどこかで溺れて死んだんじゃないかと思っていたそうな。
情報不足と通信手段がないことによるすれ違い。
私としては白けた気分の再会となったが、とにかく無事でよかった。
無事を確認できたところで、私はすぐに胴長を返すために車に乗り込んだ。感動の再会はわずか3分。
これを貸してくれた釣り吉にも助けたい人がいるのだ。
10分ほどで到着したが、すでにその釣り吉は出かけた後だった。奥さんによると、(奥さんの)実家に安否確認に向かったのだと言う。場所は渡波。海のすぐそばだ。胴長程度では絶対に近づけないだろう。
奥さんに丁重に礼を言い、その場を離れた。今、この瞬間も命の危機にさらされている人がいる。
この日の夕方から、地元の消防団と合流し、炊き出し、支援物資の運搬、交通整理、傾いた家屋の取り壊し、避難所の準備に奔走することになった。
消防団員も多くが、家が壊れたり、身内が行方不明だったり、食料もガソリンもなく、職場が流され無収入となっていた。被災者が被災者を支援するという体制が続き、日に日に疲弊していくこととなる。


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